SSブログ

今年に入って読んだ本の話でも [ひとりごと]

まだまだ寒いけど、外に出たら梅の花が咲いていた。
もう2月も中旬だものね。春が近づいてきた。

今日は今年に入って読んだ本の話でも。
昨年藤沢周平に嵌って読み漁ったという話をしましたが、さすがに時代劇にも飽きて最近のものでも読もうと思ったらどうも、うまく読み進められない。
時代劇ばっかりよんでたから、現代ものに上手くなじめなないなと思ってたら、運よく山田風太郎の読んでなかった明治ものを発見。

meijijitteka.jpg
「明治十手架」。これがもう呆れるほど面白かった。山田風太郎を読むと最近の小説とか完全に霞んでしまう。史実と虚実が入り混じって、よくまぁこんな面白い物語を思いつくもんだとその巨大な才能に改めて感嘆しました。

kiyochika.jpg
物語中に小林清親という版画家が登場するんですが、この人は実在の人物で「東京名所図」という版画を残した人です。この人の版画集も借りてきたりしました。
数年前から個人的ぷち大正ブームで大正文化に関する本など借りてきて読んだりしてるんですが、小林清親の版画をみながら明治も面白いなあと思った次第。自分の良く知っている場所がほんの150年前まではこんな風景だったんだと思うと、東京ってやっぱり大きく変わったんだなと。

ちなみに浅草というのは江戸時代から街並みがあまり変わっていない場所みたいです。雷門はあそこにずっとあったわけだしね。
先日行った谷川俊太郎展でギャラリーの所蔵品展のなかに、大正から昭和に活動した川瀬巴水の版画があり、それを見て新たに古き日本に興味を引き寄せられたのでした。

umanohone.jpg
その後、また現代小説を読もうと思ってもやっぱりしっくりこない。翻訳ものもしっくりこない。
それで普段行かない調布図書館の本館に行ったら、読んでない藤沢周平作品がいっぱいあったので、新たに「秘太刀馬の骨」を読む。これを読み始めて気づきました。

なぜ現代小説がよめないのか。それは文章でした。
藤沢周平の文章の美しいこと。物語をただ語るためだけにある簡潔な文章で、頭にすっと入ってきて像を結ぶ。もちろん技巧は凝らされているのだけど、それは技巧のための技巧でなく物語を簡潔に語るためだけに使われている。
そういう文章を続けて読んだので最近の小説がうまく読めなくなっちゃったんですね。文章のレベルが全然違うんだもん。
そりゃそうだ。藤沢周平といい山田風太郎といい。名匠だものね。先週借りてきたのが、その二人に吉田健一、澁澤龍彦とまた超一級品の文章を書く人ばっかりでした。

本を読むというのは僕にとっては文章を読む楽しみなわけで、まず何より内容よりも美しい文章を読みたいんですよね。
そういえばちょうど一年前くらいかな。平野啓一郎という作家の「マチネの終わりに」という作品が評判いいので読んでみたんです。
それが序章を3ぺージ位読んだだけでもうダメでした。それでも我慢して読み進めようかと思ったがやっぱりダメで結局5ページくらいで断念。

何がダメだったかというと気取った文体が耐えられない。
いかにも「どう?この文章表現?文学的でしょう?」という感じがミエミエで気持ち悪い。読んでる方が恥ずかしくなるような比喩が1ページに1回くらい出てくるんだもん。あれを気持ち悪く感じないどころか素晴らしいと思う人がいっぱいいるわけか・・・

閑話休題。
「秘太刀馬の骨」は隠れた傑作と呼ばれているらしく、確かにそう言えるような素晴らしい作品でした。もう匠による逸品という感じで、ミステリー風味もあり、ラストまでぐいぐいと物語を引っ張っていく推進力と言い、読後感の爽やかさと言い、ラストは思わず涙ぐんでしまうような見事な小説でした。

次は昨年から予約してた村上春樹がようやく回ってきたのでそれを読みます。あの村上節をちゃんと読み進められるかちょっと心配だけど。
nice!(0)  コメント(0)